マネジメント実験室

小さな企業の経営・マネジメントを通して日々考えたこと、学んだこと、感じたことを。

 看護はサービスであった方が安心である

『看護はサービスである』と言い切られてしまうことに抵抗のある人は多い。


病気や怪我をして入院をしているときに,看護師の優しい対応に心癒されることがある。
そんなときに,「私たちの看護はサービスですから当然です。」と言われたとしたら,興ざめするというか,ちょっと寂しい気持ちになってしまうだろう。
しかし,彼ら看護師が提供してくれるケアは対価に対するサービスである。


ファミレスでサーブしてくれる店員さんのサービスと同じである。


仕事としてお客様に接するという点で,ファミレスでの店員さんのサービスと病院での看護師のサービスに本質的な違いは無い。
どちらもお客様(患者)が気持ちよく過ごしてもらえるよう心を砕いているのだ。
もちろん,それは仕事だからなのだが,だからといってイヤイヤという訳ではない。
仕事として誠心誠意,お客様に対してサービスを提供しようとしているのだ。


そしてその対価として,ファミレスではお店を出るときにお金を払い,病院では退院時にお金を払う。
リッツ・カールトンだって,最高のおもてなしには高い宿泊代という対価が必要だ。


しかし,ファミレスの店員さんの笑顔が営業スマイルであったとしても,病院での看護師の笑顔は偽りの無い心からの笑顔であって欲しいと願う人は多い。
患者本人もそうであるし,家族に至ってはもっとそうかもしれない。


病気で弱っていたり,命が関わる現場では,偽りの無い人間の優しさに触れたいという思いからであろうか。
サービスという言葉の中に,『対価ゆえの繕った表面的な献身や優しさ』を感じてしまうのかもしれない。


しかし,これはあくまで感覚的なことだと私は思う。


サービスであろうがボランティアであろうが,ケアは提供者次第であるし,サービスだから優しさは偽りでボランティアなら献身的ということはない。
夜勤明けで疲れていても,優しい看護師は心からの笑顔を心掛ける。
サービスだとかサービスじゃないとか,そんな意識とは関係なく。


ここで私の考えを述べると,『看護はサービスであった方が安心』ということ。


サービスであれば,対価にしたがって分け隔てなく受けることができる。
しかもきちんと責任を持ってである。
質も量も保証される。
満足がいかなければクレームを付けることも可能であるし,改善要求を出すこともできる。


ボランティアはいいかげんという意味ではない。
ボランティアであっても,責任感の強い人は責任を持ったケアを行う。


ただ,ある一定以上の質を求めるのであれば,サービスであった方がニーズを満たせる確立は高い。
これは自由競争の原理である。


看護師は職業であるから,生活をするための手段でもある。
ということは,高い対価が支払われるところの方が質の良い看護師が集まる。
教育制度も整っているであろうから,ケアの質も均質化されている可能性が高い。


それを期待してブランド病院を選ぶ人も多いのではないか。


きちんと競争原理が働いていて,質の高い看護師が高い報酬を受けることが可能ならば,看護がサービスとして提供される方が安心である。


命が関わる現場であればなおさらだと思うのだが,どうだろうか。