マネジメント実験室

小さな企業の経営・マネジメントを通して日々考えたこと、学んだこと、感じたことを。

高齢化と長寿化を阻止すれば希望が見えるだろうか

■高齢者の負担割合を増やすという選択肢

少子高齢化で人口構成比率が高くなった高齢者の年金や医療費を,少なくなった若い世代が負担する。


自らは生産しなくなった人間の割合が増えて,割合の少ない人間の生産分でみんなが生きていく。


割合の少ない生産者=若い世代は,自分自身の人生に投入できるお金が減ってしまう。単純に言ってしまえば,高齢者が増えることで,若い世代の人生の質が下がってしまうということ。


若い世代の人生の質もモチベーションも下げないように,高齢者の負担割合を増やすという選択肢はないのだろうか。


少子高齢化も,景気も,政治も,赤字国債の累積も,つまりこの国の現状というのは,過去の積み重ねの結果であり,上の世代ほどその責任は重い。一生懸命働いて,子育てして,社会に貢献した人生であったとしても,現時点の社会は過去からの継続であり,現役を引退したとしても分担すべき責任はある。


高齢者にかかる公的費用が若い世代を圧迫するならば,高齢者の負担割合を増やして,若い世代の負担割合を減らせばいい。高齢者だけが既得権益者になるとバランスが取れない。


■弱者を全て救うことはできないという事実

社会的弱者を社会システムで救済するというのは,国家の大切な機能だと思う。
しかし,今後高齢者はどんどん増える一方であり,社会的弱者であるからといって,手厚く救済することは不可能である。


できないことはできないと、どこかの時点でみんながはっきり認識するべきだ。


これからの高齢者は,これまでの高齢者ほど救済もできないし,国家レベルで大切にすることもできない。
極論すれば、あとは死んでいくだけの高齢者に手厚く救済するよりは,救済することで生産量が上がる若い世代に手厚く救済する方が国としては繁栄する。
高齢者への医療費や介護費を減らした分,若い世代の能力開発や子育て支援に回した方が実りがあるという見方はあるはずだ。


弱者を全て救うことは、現実的に無理なのだと思う。


■不必要な長生きというのは実態として存在する

「老人に死ねというのか」と元気に発言できる老人は長生きすればいいと思う。もちろん公的負担は増やしてもらった上でだが。
問題は死なせないために長生きしているレベルの高齢者だ。


必要以上に長生きさせているケースが実際にはたくさんある。

本人の意思ではなく、家族の思いとか、倫理的な問題とか。


こういう単なる寿命コントロールを今後もやり続けるのかどうなのか。


『死にどき』というのは本人だけの問題ではないように思うのだが。


■寿命まで生きることで誰もが望まない結果を招いている

多くの人は老後において家族に迷惑をかけたくないと思っている。自分の子供には当然負担を強いるようなことはしたくないし、自分自身の尊厳を守るためにも、他人に迷惑をかけるような生き方は望まない。


しかし、現在の平均寿命まで生きることは、家族を含め,結果的に誰かに負担を強いることになってしまう。


医療保険・介護保険の負担は確実に増加する。


それでも楽しい人生がまっとうできれば、他人のことなんか知るか、という人も多いだろうが、寿命まで、つまり死ぬまで生きるということは、楽しい最後ではないことが多い。


ほとんどの高齢者はポックリとは死ねず、何らかの疾患を抱えて不自由な状況で生き続けなければならない。


『もう疲れた。十分生きた。』といって勝手に死ぬことができない。


寿命まで生きることは,自分自身も,そして周りの人間も望まない最期をもたらすことが多い。


■自分で自分の寿命をコントロールする権利はないのだろうか

医療依存度の高い高齢者が入院している病棟に行くと,たぶんたいていの人は気が滅入る。


寝たきりの人が多いし,少なくとも元気な高齢者はいない。


『自分はこんな風になりたくない。こうなる前に死にたい。』

『人間はこんな風になっても生き続けないといけないのだろうか。』


入院中の高齢者には責任はないが,本音ではこんな風に感じるのではないだろうか。


もし,自分で自分の寿命をコントロールできるならば,疾患を抱えて大変な状況になる前に人生を終わらせられる。

必要以上に長生きすること,その結果の長寿命化ならば,それを阻止する方がみんなが幸せになれるのではないだろうか。


自分の寿命なんだから自分でコントロールしたい。