マネジメント実験室

小さな企業の経営・マネジメントを通して日々考えたこと、学んだこと、感じたことを。

中学受験のエリートたち

堀江氏のブログをチェックしていたら、昨今の中学受験に関する藤沢氏の『金融日記』と元ネタのアゴラの松本氏のブログが引用されていた。

中学受験のこと。|堀江貴文オフィシャルブログ「六本木で働いていた元社長のアメブロ」


金融日記:中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ


BLOGOS(ブロゴス)- 意見をつなぐ。日本が変わる。

アゴラの松本徹三さんと話題に出てくるイタリア人夫婦の言わんとするところはわからないではないが、日本の学習塾システムは能力の高い(ここでは勉強ができるという意味で)子供たちの受け皿になっており、公立小学校がカバーできない上位者の引き上げを担っているという面はかなり大きいと思う。


学習塾と言ってもいろいろ種類があって、ここで問題としているのはいわゆる難関校と言われる中高一貫校や附属校に入るための進学塾だと思うが、そういった難関校が“振るい落とし”や“ひっかけ”の難問・奇問を出していたのは随分昔の話だと思うし、進学塾側が難関校対策のために記憶力勝負の詰め込み教育を行っているという認識も古い。


受験システムの是非はここではひとまず置いておいて、このイタリア人夫婦も息子を入学させたいと願う「中高一貫教育をしてくれる良い中学校」が受験によって入学者を選抜すること自体は間違っているとは思わない。自分たちの教育理念と環境、教育カリキュラムで将来有望な人材を育てたいと考えている学校側にとって、誰がポテンシャルを有しているのかを判別する方法として“受験”という選別制度はベストではないかもしれないが、選ぶ側にとっては効率の良い方法だと思うからだ。


進学塾側も難関校の選別方針(ということは能力開発方針)に合わせて子供たちの学習能力を開発することになる。“知識偏重”とか“考える力が育たない”という批判はかつてあったものの、例えば堀江氏も触れている方程式を使わない算数などは非常に頭を使う問題が多く、考える力の一面を計ることはできる。選ぶ側(難関校)が、知識詰め込み型人材ではなく、将来も能力が伸びる可能性を秘めた高ポテンシャル人材(入学者)を欲しているわけだから、塾側はそういう能力開発のトレーニングにシフトしていることは当然である。


このフランス人夫婦は、「自分たちの子供はこういった“受験勉強”用のトレーニングを受けていないから、難関校が選抜に用いている試験では実力を発揮できないかもしれないが、実際には難関校が求めているポテンシャル人材なのだ」と考えているのかもしれないし、実際その子供には潜在的に力があるのかもしれない。


しかし、世間には同じようにポテンシャルの高い小学生が他にもたくさんいて、本人も良い教育環境で学びたいと切望しているし、その親たちも本人の願う環境で学ばせてやりたいと願っているわけだから、リソースの限られている学校側としては何らかの選抜の仕組みを用いるしかない。


それが今の難関中学受験と合格を支える進学塾による受験システムになっているのだと思う。

日本の親達でも、まともな人達なら、今の受験勉強のあり方や「塾通い」がよいことだと、本気で考えている人はあまりいないでしょうが、「子供達の将来の為を考えると、仕方ない」と思って、やらせているに違いありません。・・・教育の改革は火急の問題 - 松本徹三


難関校以上を目指す中学受験において、受験勉強のあり方や「塾通い」が弊害をもたらしていると思えるのは、まず公立学校ではそういった上位層の能力トレーニングを行うことができないけれど義務教育なので授業は全て受けなければならず、必然的に放課後の遅い時間帯に塾に通って勉強しなければならないことだ。日能研四谷大塚、SAPIX帰りの小学生たちは夜の9時過ぎに電車に乗って、駅に迎えに来た親の車で家に帰り着くのである。それから今日やった範囲の復習をやるだろうし、翌朝は他の子供たちと同じように再び登校しなければならない。これは10代前半の子供たちにとってはかなり過密スケジュールだし、睡眠不足になる可能性も高い。


こういった受験勉強を取り巻く環境が、一部の教育熱心な親と子供たちの任意の意志による特別な活動だから「本人たちの問題だ」と済ませるのはおかしくて、そうやって難関を突破した人材を、社会や企業は将来重宝して活用しているのも事実なのである。
公立学校は中間層以下の底上げに多いに力を発揮し、国民の教育水準を一定以上に保つ働きをしているので、社会的機能を十分果たしているのだが、反面この仕組みの中では、上位層の能力開発が個人任せになっている面は否めない。


中学受験を始めとする受験の最終目標は医学部合格でも東大合格でもないと私は考えている。
勉強が好きで勉強が得意な子供たちには、将来(学問やビジネスの分野で)創造的な能力を発揮する可能性が高くあって、そういう子供たちを早く選抜して適切な環境で教育して能力を伸ばすことに意味があるのだと思う。


芸術やスポーツの世界のように一部の才能ある人材を英才教育するのと同じだと考えれば、突出した才能にはスポンサーが付いてもいいくらいだと思う。


上位層の能力開発が個人任せになっているために、その金銭的な負担が全て個人世帯にかかっているのも弊害だ。経済的なバックボーンが無ければ、能力があってもそれを開発する機会を逸しているという可能性がある。勉強ができるというのも個性だとすれば、将来社会に還元できる可能性の高い個性には公的な資金援助があってもいい。先ほどのスポンサーと同じ発想である。


つまり日本は中間層以下の底上げについては義務教育などの社会システムが機能しているが、上位層=エリートの発掘から能力開発、そして社会への還元というサイクルについてはほとんど国が介入していない。私立高校や私立大学にはほとんど補助金も出ないのが現状であり、教育と次世代の育成に関しては投資をしないというのが最近の傾向でもある。


そういう意味では、難関校に代表される中学受験と学習塾システムは、不完全なシステムかもしれないが、日本国家があまり介入していない上位層=エリートの発掘と育成に貢献しているのではないかと考える。


もちろん、受験システムは人間の能力発掘に対して完全なシステムではないから、そうやって選抜された難関校出身者も、社会に出てみたらほとんど役に立たないとか、大企業には入ったけど大した仕事もできずパッとしない、あるいは人間的におかしくてダメというケースも多々あることは確かである。だからといって受験システムで選抜された人材が国際競争力が無いといった極端な否定論もおかしいだろう。


底上げの社会システムが比較的機能している中間層以下の中にだってダメな例はいくらでもある。公的な職業訓練を行ってもなかなか定職に就かず、生活保護で暮らしてしまう人や、アルバイトもたまにしかしないでパチンコに興じている人など、勤勉さとは程遠い人がたくさんいるからといって、日本の義務教育システムの機能が低下してきていると一概に判断できないのと同じである。



難関校受験を突破したエリート小学生たちの将来が“凡庸な大人”であるとの指摘があるが、必ずしもそうではないだろうと思う。
金融日記:天才小学生たちはどこに消えた?


日本の官僚、弁護士、医者、エンジニアなどなど、確かに平均年収で区分してしまうと、その他大勢の普通の大人と大した違いが無いのかもしれないが、彼らはやはり日本を支えているエリート層には違いない。


エリートの定義にもよるのかもしれないが、エリート=『大金を稼ぐ人』、という見方をしてしまうと、日本は富の再配分機能が社会システムの中に組み込まれているので収入格差が生じ難く、エリートと呼べる人たちが非常に少数になってしまう。


エリート=『自らの高い才能を自覚して弛まぬ努力の結果社会に付加価値を提供できる存在』とすれば、難関校を突破したエリート小学生たちの多くは、エリートの仲間入りをするのではないだろうか。


NHKオンライン

上田泰己氏は堀江氏と同じ久留米大附属から東大(理科3類)に進学した経歴を持つ、現在理化学研究所に所属する弱冠34歳の生命科学者である。体内時計の謎に挑んでいる世界トップクラスの科学者である。
彼は間違いなくエリートであると思うのだが、恐らく年収は大したことがないはずだ。


彼の人生において大きな影響を与えたのは高校時代の恩師であるそうなのだが、もし彼が難関校のように優秀な生徒と熱意ある教師陣がいない環境下で高校時代を送ったならば、違った人生になっていたかもしれない。


彼のような存在をいち早く選別し、より良い環境下で能力を開発するために中学受験が機能しているとも言えるのである。


問題は大学と大学院だという藤沢氏の指摘は、ほんとうにそうだと思う。


東大出身ではない私が言っても説得力がないが、上限が東大クラスというところにも問題があるだろう。


能力があれば、ガンガン飛び級して、より能力の高い人材が集まる組織で経験を積むことができるようになれば、上田氏のような若くして突出した才能がもっと輩出される土壌が日本にはあるように思う。