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マネジメント実験室

小さな企業の経営・マネジメントを通して日々考えたこと、学んだこと、感じたことを。

ノブレス・オブリージュ

社会科学系は疎くて、“ジョン・ロールズ”という哲学者の存在を知らなかった。

たまたま視聴したNHK教育テレビの『ハーバード白熱教室』という番組、結構人気が高いらしい。
NHKオンライン


初めて見たのが第8回目らしく、ジョン・ロールズの正義論についての講義であった(第8回 「能力主義に正義はない?」)。


サンデル教授の巧みな話術も手伝って、ハーバードの学生のように講義に引き込まれてしまった。


まるで聴講生のように講義に聞き入りながら、高校生の時に受けた授業を思い出した。私のその後の人生にボディーブローのようにジワジワと影響を与えることになった授業である。


私はカトリック系の学校に通っていたのだが、高校に入学した一発目の宗教の時間にスペイン人の神父が語ったのが『ノブレス・オブリージュ=高貴なる義務』についてであった。


『この世界には“持てる者”と“持たざる者”がいる。運よく“持てる者”になった君たちは驕ることなく精進して努力しなさい。そして、その努力の成果を世の中に還元しなさい。それは“持てる者”である君たちの義務だから。』


要約するとこんな感じだったと思う。非常に衝撃を受けたというか、肩すかしをくらったというか、とにかく鮮明に記憶に残っている。


それまでの私にとって、努力して結果を出すことは善であり、親や教師から褒められることは、自分だけの成果であった。


私は、中学受験で失敗したため、3年間の塾通いを経て、中高一貫校の高等部への編入を狙っていた。受験経験のある方や受験生を持つ親ならわかると思うが、中高一貫校の高等部への編入はかなり狭き門で、私の母校では200名の中等部生(持ち上がり)に対して50名だけ編入生をとって、250名体制にしていた。


田舎で“のほほん”と幼年期をすごした自分が、高校受験でリベンジを果たすためには相当な努力が必要であった。塾の定期テストで優秀な成績を収め、少しでも上のクラスに昇らなければ合格はない。徐々に少人数の精鋭クラスに上がることは、幼い自尊心を刺激したし、気持ちの良いことであった。


そうやって勝ち取った合格は、自分の努力の賜物であり、自分が手にした自分だけの将来へのパスポートだと考えていた。あたり前のことで、疑う余地はない。


意気揚々と入学して、さあこれからという時に、目の前にいる神父が『そんな努力はあたり前のこと。ことさら威張るようなことじゃない。もっと努力しなさい。』とにこにこしながら言ってのけたのである。


「なっぬぅー、遊ぶのも寝るのも我慢して、どれだけがんばったと思ってんだ、あたり前じゃねーだろ、オレの努力の結果なんだよ、他に誰のおかげだっつーんだよ。」


というようなことを考えていたに違いない。そりゃそうだ、受験は精神的にも肉体的にも本当に大変だったから。


それと同時に神父の言葉に違和感を感じた。だってキリスト教って、神の下の平等を謳っているんじゃなかったっけ。“持てる者”と“持たざる者”がいるって、人間は平等じゃないってこと?


そう、神の下では平等だけれども、人間は平等には生まれついていない。そのあたり前のことを神父は我々学生につきつけ、だからこそ驕るなかれと諭したのだ。


どれだけ受験が大変といったところで、生命の危機を感じながら勉強していたわけではない。自分の勉強部屋があり、勉強だけしていれば、その他の生活は何の心配もなかった。両親ともに健康で、塾の月謝だって親が払っていた。勉強がわからなければ、先生が教えてくれたし、よしんば志望校に落ちても死ぬわけではない。視力は悪かったがメガネをかければ見えるし、耳はいい。受験の時はちょっと太ったが、運動神経は良い方だ。


そう、私は恵まれているのだ。どれだけ努力したといっても、その努力する能力、努力できる環境さえも与えられたものだ。


なーんてことを高校生の頃には理解はできなかった。ただ、『努力することは義務』というメッセージはずっと頭から離れず、小心者の自分はサボるということに罪悪感を感じるようになってしまった。


それで、前述のサンデル教授の授業に話を戻すと、ジョン・ロールズが唱える格差原理に対しては、ハーバードの学生からも反論が出る。努力に応じて報われないなら、努力しようとするインセンティブが働かないじゃないか。サンデル教授の講義を聴いている学生は、間違いなく“持てる者”だから当然の意見といえよう。


ジョン・ロールズの正義論を詳細に説明することは私にはできないがコンセプトは理解できる。(ジョン・ロールズ - Wikipedia


神父が言うように“持てる者”の良心に従って、社会正義を行ったり、“持てる者”と“持たざる者”の格差を是正したりする、というところを、人間の良心に頼るのではなく、社会システムの中に格差を是正する仕組みを組み込んでしまおうというものだと理解している。


そういうある種のユートピアを人は追求し、平等に向かって世界を構築しようとするのか、私にはわからない。


ただ、ハーバードの学生のような世界の知能に対して、このような真のエリート教育を行うことは重要だろう。


日本の政治家とか官僚にも必須にしたら何か変わるかな。