■在宅死を選ぶ人々
著名人である愛川欽也さんが『在宅死』を選んだことで、在宅で最期を迎える『在宅死』に関心が集まっています。私たちが提供しているプライベート看護サービス(アラジンケア/http://aladdincare.com)でも、自宅での看取り、つまり『在宅死』のために利用する方はたくさんいらっしゃいます。
在宅死を目的とした利用者の疾患としては、“がん”の方が多く、またほとんどが積極的な治療ではなく緩和ケア(=痛みの緩和を薬等によって行う。多くの場合積極的治療は行わない)を選んだ方々です。お客様の正確な集計をとったわけではありませんが、緩和ケアを選ぶ方の年齢層としては60代以上の方が多いように思います。理由としては、50代までの方々は緩和ケアよりも積極的な治療を望まれることが多いからではないでしょうか。50代というと世間的にはまだまだ現役世代ですから、抗がん剤治療など、治癒するために可能性のあることは積極的に取り組み、再び社会に復帰することを望まれるのだと思います。
一方、60代以上の方々、特に70代、80代となると、子供世代がすでに成人し、人によってはお孫さんもいらっしゃる世代です。一応の社会的責任を果たしたということで、薬によっては副作用による身体へのダメージが大きい抗がん剤治療などの積極的治療よりは、残りの人生を穏やかに過ごすために緩和ケアを選択する方が多いのだと思います。愛川欽也さんもこの世代にあたると思います。
もちろん抗がん剤治療の効果が現れる方々も多いわけですから、病気の進行度合いや治癒の可能性などをよくよく考えた上での、治療あるいは緩和ケアの選択であろうと思います。
最終的に在宅死を選択する方も、もともとは治療を目的に病院に入院しています。病院で診断を受け、最初の段階では治療を試みる方も多いのです。しかし治療の限界、年齢的、体力的な問題などから緩和ケアに切り替えられ、退院して在宅での療養に移ります。
そして最後は、在宅での看取り、つまり『在宅死』を迎えることになります。
■在宅死より病院死が多い理由
アンケート調査を行うと、慣れ親しんだ自宅で死ぬことを望む人が大多数であるにも関わらず、実際には大半の人が病院で亡くなるのは何故でしょうか。
私は2つの大きな理由があると考えています。
1つは、実際に病気になって“終末期”=“ターミナル期”を迎えたときに、「やっぱり病院の方が安心」と考える人が多いという現実です。
自宅は病院ではありませんから、呼べばすぐに医師や看護師が駆けつけてくれるわけではありませんし、医療設備も病院ほど整っているわけではありません。『死ぬ』というのは、普通の人にとってはやはり未知の恐ろしい生理現象ですから、環境の整った病院で死にたいと考えることはごく自然のことのように思います。
ただし、これは現状の在宅医療の実態を知ると、違った視点で在宅死を見ることができます。
確かに在宅では病院ほどの医療機器を備えることは不可能です。しかし、最近では在宅医療に必要な医療機器は小型化され、性能面でも病院で使われている医療機器と大差ありません。それに、自宅での穏やかな療養や在宅死に必要な医療機器は、病院の医療機器ほど種類も規模も必要ではありません。
病院というのは、そもそもが診断や治療に特化した機能を持つ施設ですから、それらに関わる医療機器は充実していますが、在宅療養や在宅死のために必要な医療機器は、診断や治療に必要な医療機器とは異なります。もちろん在宅療養で必要とされる医療機器は病院にも装備されているものがほとんどですが、それらは前述のように小型化され、在宅においても病院と遜色ない機能を発揮します。
また医師や看護師、そして緊急時の対応といったソフト面でも、在宅だから不安ということもありません。自宅を訪問して診療してくれる在宅医、看護を提供する訪問看護師が公的保険で利用できます。
ただし、在宅では医師や看護師が常駐しているわけではありませんから、呼ばれてすぐに駆けつけるといっても、病院のようにはいきません。在宅医も訪問看護師も、24時間コールが可能なのですが、病院のように短時間で駆けつけることは不可能です。
しかし、穏やかな療養とその延長線上にある『在宅死』=『自宅での看取り』を目標とする在宅療養においては、医師や看護師が病院のように短時間で駆けつけることは、本来必須ではないと私は考えます。
仮に病院に入院していたとして、状態が急変して間もなく死が訪れる状況となったとき、看取りを前提として病院でできることと在宅でできることに大差はありません。穏やかな死を迎えるわけですから、心臓マッサージや薬剤投与、輸血や気管挿管のような救命処置は行いません。人が死を迎えるにあたってのプロセスと諸注意を知っていれば、家族だけでも看取りは可能です。逆に言えば、病院で医師や看護師が側に居る環境においても、医師や看護師ができることは限られており、家族中心の看取りも可能です。実際、病院での看取りにおいて、家族への配慮を徹底させている病院も数多くあります。
だとすれば、慣れ親しんだ家族も近くにいる自宅という環境で死ぬことの方が、実は不安要素よりも安心感の方が大きいという見方もできるのです。
高齢や病気の延長線上として最後に必ず訪れる死を、本来治療や回復のための施設である病院で迎える方が安心と考えるのか、穏やかな療養と死を実現するための在宅医療インフラを活用して在宅死を選ぶのか。正しく、最新の情報に基づくのであれば、それぞれの価値観に委ねられると思います。
そして2つ目の理由。在宅死よりも病院死の方が多い理由の2つ目です。それは「在宅死を選択することで家族に多大な迷惑をかける」という意識が働くからというものです。
「家族に迷惑をかけたくない」というフレーズは、「あなたはどこで死にたいか」というアンケート調査において、本音では在宅死を望みながら実際には病院死を選んでしまう理由として必ず出てくるものです。
私が1つ目の理由に挙げた、「死ぬなら病院の方が安心」という感情、裏っ返せば「在宅での死は不安」という感情は、死を迎える当人だけのものではなく、家族や周りの人たちにも共通した感情なのだと当人が理解しているということでしょう。
医療制度が整備されて以降、日本人が死を迎える主たる場所は、長らく病院でした。そのため普段の生活の中では、人が死に際してどのようなプロセスを経るのかという生の情報に触れる機会はほとんどありません。穏やかに眠るように迎える死がある一方で、抗がん剤治療による副作用の壮絶さや痛みのコントロールがうまくいかないために人格が変わるほどの痛みを味わうといった死に際してのネガティブ情報はマスコミにも取り上げられやすく、病気による死への不安感を煽ります。
人が死ぬということは大変なことで、とても医療の素人である私たちが扱えるものではないという少し偏ったイメージが浸透しています。そのため『在宅死』を選択することは、本人にとっても大変なことだし、家族にも大変な状況を押し付けることになると考えてしまいがちです。だから何があっても大丈夫なように、医師と看護師と設備が整った病院で、家族には面倒をかけずに死ぬ方がよいと考えるようになります。
これは一面では正しく、ただ一方では偏った情報による判断とも言えます。私たちが依頼を受けて、自宅での日常の看護や在宅での看取りをお手伝いしたケースでは、痛みのコントロールがうまくいかなかったというケースは皆無ですし、ほとんど全てのケースにおいて穏やかな死を迎えられています。年齢層も90代以上の方もいれば、40代前半の方もいます。若い方の病状の進行は早いですが、それでも症状の段階に応じて在宅医が痛みのコントロールを行いますし、最期も穏やかに迎えられました。疾患と状態によっては、例えば神経ブロック注射といった病院やクリニックで施すことが多い処置を行うこともありますが、このような場合は病院に入院して処置を行います。それでも在宅と病院でうまく連携を取りながら、ほとんどの時間を在宅で過ごすのです。
ですから、病院でなくても在宅でも十分穏やかで不安のない終末期を送ることができるのです。
■在宅死には家族のサポートが必要
『在宅死』についての正しい情報を持ち、在宅医や訪問看護といった公的保険で利用できる在宅医療インフラを活用すれば、『在宅死』も決して不安なものではないと述べました。
しかし、『在宅死』は家の中に“死にゆく人”がいる状態であり、“死にゆく人”が穏やかに死ぬためには他者からの精神的、肉体的なケアが必要です。多くの場合、それは家族が担うことになります。
もちろん、医療的なこと、専門的なことは在宅医や訪問看護師がサポートしてくれますが、それはあくまで部分的なことです。一日の大半を“死にゆく人”と生活を共にするわけですから、家族の精神的、肉体的な負担は当然大きなものになります。
愛川欽也さんの場合は、うつみ宮土理さんがその役割を担ったわけです。
最期が近づけば、死への不安や恐怖が言葉になって出ることもありますし、眠れなかったり、一時的に痛みや身体の不快感が出ることもあるでしょう。家族は“死にゆく人”のそれら精神的、肉体的状態を受け止めて、献身的にケアをすることが必要です。
したがって『在宅死』を成功させるためには、本人だけではなく、家族も『在宅死』を選ぶ必要があります。“死にゆく人”を見守る人々が「在宅で看取る」ということを選ぶということです。きちんとした知識を持って、在宅医や訪問看護師のサポートを受けながら、『在宅死』を実現するための努力をするという選択ですね。
■在宅死を尊厳死とするために
「在宅死」を選択する本人や家族の中には、在宅死こそが尊厳死だと考える人もいます。逆に言えば、この方々は病院では尊厳死はできないと考えているわけです。
そもそも尊厳死とは読んで字のごとく「尊厳ある死」を意味しますから、死ぬ場所がどこであろうとも尊厳死は可能なはずです。
終末期の方々をたくさん見てきて思うのは、尊厳死とは「その方が生きてきたように、その人らしく死ぬこと。」だと私は考えています。ですから、理屈としては死ぬ場所がどこであっても「その人らしく死ぬ」=「尊厳死」は可能だということになります。
自分が興した事業に心血を注ぎ、何よりも社員を大切にしてきた方なら、個人としてよりは、最後まで事業の創業者として死んでいくことが、その方にふさわしいかもしれません。
地域の活動に尽力され、地域の人々から慕われていた方なら、活動を共にしその貢献を理解する人たちに惜しまれながらの死がふさわしいかもしれません。
こういったことは自分の家で死ぬ「在宅死」でなくても、病院でも可能ではあると私は考えます。
仮に自宅で死ぬことができたとしても、死の恐怖や病気による痛みに苦しみながら死ぬのであれば、それは「尊厳死」と言えるのかどうか。
「在宅死」を実現させるために家族が精神的にも肉体的にも疲弊してしまい、死を迎える家族に大事なことを伝えられないまま看取りに至ってしまうのであれば、家族にとっては「尊厳死」ではないのかもしれません。
私たちのサービス(アラジンケア)を利用する方々は、保険サービスの他に看護師をプライベートに付けるわけですから、“死にゆく人”へのケアはもちろんのこと、家族に対する精神的サポートや実際のケアも看護師に任せることができます。
したがって、家族の死を受け止めたり、家族としてどういう看取りにしたいのかを考える余裕がありますし、また私たちのスタッフからも家族に対してアドバイスを行いますから、「その人らしい死」を実現することができます。
しかし、在宅死を望む方とその家族のみんながみんな環境に恵まれるわけではありません。
ですから、例え「在宅死」を望んでいたとしても、病院で死を迎える方が、結果的には尊厳死に近いということはあると思います。
『在宅死』が着目され、改めて在宅医療の現在や制度、最新事情などが一般の方々に情報として認知される機会になるのはとても良いことだと思います。
しかし、『在宅死』が理想の死に方であるためには、様々な条件を満たすことが必要になりますから、何が何でも『在宅死』ということではなく、何が自分にとって、あるいは家族にとって「その人らしい死」になるのかを優先して考える方が、『尊厳死』への早道なのではないかと私は考えるのです。